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というのも田代は、日本人として持っている美意識のようなもの、つまり日本にもともとある自然や信仰に「個」が接続しなければ、真の芸術ではないと書いてる。その象徴として挙げられるのは天皇の和歌。そこに接続しない個性尊重の芸術は、ただの個人の幼稚なわがままであるという理屈。
ただ、田代がそう断定した西洋のシュルレアリスムは、本来「個人の意識を超えた無意識や集団の意識」に迫ろうとしていた芸術で、全然個性を尊重するだけの芸術じゃない(笑)。「個」を超えたところに真の芸術性があるという点で、ゴールは違えど両者は似通ったところがあると足立さんは指摘している。
これ、僕らの現代アート評にもつながるところがあるでしょ。「個のエクストリーム」でもなく「私的」に溢れた個性尊重っぽいものなんて、僕らもアートだと思わないでしょ(笑)。
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http://blog.livedoor.jp/taki1959/archives/34591593.html
千葉雅也著『動きすぎてはいけない』(3)
石を投げると、蚊柱はパッと散り消えるが、暫くすると同じ場所にまた蚊柱が立っている、そのイメージがドゥルーズの身体のイメージと重なる。ドゥルーズが使う『分子状』『微粒子』からも想像できることだが、それよりも『セルフエンジョイメント』(自己享楽)から誘発されるイメージが、蚊柱とオーバーラップするのだ。ドゥルーズは『セルフエンジョイメント』をこのように説明する。
「花や牛は、哲学者以上に観想します。しかも、観想しながら、自分で自分を充たし、自分を享受するのです。花や牛は何を観想するのでしょうか。自分自身の要件を観想するのです。石はケイ素や石灰質を観想し、牛は炭素、窒素そして塩を観想するわけです。これこそセルフエンジョイメントです。」
セルフエンジョイメントとは、自分とは異なる「元素」たち、つまり他者たちのまとまりとして観ること。この石や牛に倣うなら、人は身体を構成する細胞群を蚊柱のように観想することで、セルフエンジョイメント(自己享楽)を得ることができるのではないか。ポイントは、自分が変化するのではなく、自分の微粒子(細胞であり一匹の蚊)のあいだの関係の生成変化なのである。
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海月が目的も無く東京をただなんとなーく生きる若者のメタファーとして描かれる。
毒を持ち、触れることのできない海月は、触れられることなく、東京の隙間(家の隙間、排水溝、川)を漂う。海月は群れをなし、東京を脱出して行く。
そこに社会に適応できない者の”アカルイミライ”がみえる。
Buffalo Daughterの曲に『Jellyfish Blues』(1998) という曲がある。
失恋した語り手が自分を海月に例え、私の心の明かりを消さないでという。
Buffalo Daughterの曲は、上がりもせず下がりもしないような、両義的で中動態的なものが多い。日本的と敢えて言ってもいいだろう。目的を持たないということと、対象を
定めず結論を宙吊りにしておくことは同義だろうか。
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BOY MEETS GIRL を見る。その人物のパーソナリティ、つまり「その人自身」ではなく、その人物のいる空間を思う。部屋、バス、電車...音がその空間を繋いでいく。我に返る瞬間、やり場のない情緒が部屋に漏れ出ている。ついには身体の、皮膚という境界ですら破いてしまう。
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「政治性」とは何か?
それは「社会性」つまり他者との関係に置いて、立ち位置、上下などの「力」「パワー」という概念を導入することで現れる概念なのかもしれない。「権力」についての運動。
日本人はよく黄色人種に分類されるが、その肌は、「灰色」とイメージした方が、適切なように思える。欧米へのコンプレックス(それは、実質的に日本がアメリカの支配下にあるからだと言える)が白人-ヨーロッパ的なものへの憧れか、黒人-アメリカ的なものへの憧れが、黒か白か、選ぶように促す。しかし、黒人も日本人も、ある意味で「白人」に劣等感を抱いてきた部分がある。だからこそ、一部の黒人的想像力がクールジャパンなどアジア的想像力と結びつくのだろう。昔であればウータンはカンフーを取り入れ、最近では枚挙に遑がない...例えば、ニッキーミナージュが原宿に影響を受けたり、若手ラッパーがアニメを好んだり、、
今の自分は「どうせこんなもんだろう...」といった風に、願望水準が期待水準の低さに足を取られている。水準が高いと、他者に対し当たってしまったり、嫉妬してしまったりする。それが嫌でまた願望水準が下がる。たまには嫉妬してもいいではないか。嫉妬が元に何かを成し遂げられることもあるだろうから。そして、前提として他人は他人、俺は俺なのだ。短絡的にではなく長期的に物事を考えることが重要である。
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「身の丈」発言に見られるように、「身分」「階級」といったものを内面化させる権力/制度に人々は意識的になってきたと思う。隠されてきた権力を暴くのだ。
そうした「個」を萎縮させるものへの反抗としての「ギャル」が最近、出始めてきた。
あくまでツイッターを見る限りであるが、「ギャル」への憧れや志向というのが2019年初めあたりから散見されるようになった。
ここでの「ギャル」とは
・自分の好きなように行きてゆく。「私」を守り抜く「ギャル」
(といっても今の自己に固執するというよりか、新しく変身してゆく「私」を守るような上昇志向)
・ツイフェミのように極端ではなく、ある種の適当さを受け入れる主体としての「ギャル」
田島ハルコ曰く「引き裂かれたまま自己決定するのがギャルの良さ」とのこと
・強さへの憧れ
「ギャル」ではないが、ラッパーに背が低い人が多いのは、身体性のコンプレックスによってラッパーという強い身体像に憧れた結果なのではないか
といったところだろうか。
ではなぜ「ギャル」が流行り出しているのか。
インスタグラムなどにより、常に自己イメージの「変身」を可能にした。me too運動などの台頭。「身分」や「枠」に囚われない、、ポストポストモダンといったとこだろうか....。何でもありが進むと同時に当然モラルも壊れて行く危険性もあり。
パラパラなど、2000年代のカルチャー/ファッションへの回帰も関係しているかもしれない。tohjiのファッション、サンプリング元、、それは都会のヤンキー的なものへのノスタルジーなのか...しかし局所的な流行に過ぎないのかもしれない。