フィッシュマンズセカイ系かという問題では

「窓はあけておくんだよ」という歌詞が参照される。これは自分の部屋という「私室」から少しだけでも社会性を担保しようという少しばかりの抵抗に思える。「私室」に篭ることは、気がついたらiPhoneを2時間も見ていた...というようなある種の没入状態に入ることだ。しかし、そのことは外側を想像しづらくさせ、息苦しさを伴う。聴覚、というより、耳が覚える不快感を窓を開けることによりぶっ刺せる。

 

日本の音楽はパーソナルであり、結構セカイ系が多い気がする。それは他人とのコミュニケーションの断絶だ。

 

銀杏ボーイズはセカイ系か?そうだろう。自分の頭の中で、戦争が、恋愛が、起こっているに等しいかもしれない。妄想の中で。

 

エディプスコンプレックスとは、

二者関係(私と母)に第三者の視点(父)が挿しこまれることである。とも解釈できる。私の場合は、日本社会の道徳や、権力や身分に従順な思想など、、「日本人性」こそが「父」だろう。その「父」の思想/道徳を、「母」とのコミュニケーションを経て内面化させたのかもしれない。

 

三者の視点は、社会性を獲得するためには必要なことだ。二者関係だと、そのルールやコードは流動的で、曖昧になるからだ。第三者の視点は、自分の行動が他人に(客観的に)どう見えるか、どう思われるかという意識を発生させる。それこそが社会への第一歩というわけか。しかし、ここで大切なのは、他者の視線を気にしすぎることなく、他人の立場になって考えてみるというシンプルなものだろう。

 

HIPHOPとは、自己同一性に関する、ある種の病のようなものなのだろう。特に日本語ラップというものは、日本のサブカル全体が、アメリカによって規定されてきたが故に、私は何なんだろうという思いが、アメリカ発のHIPHOPというカルチャーに行き着くことは想像に難くない。何かになりたいという欲望、承認欲求がアイデンティティの迷路へと誘う。

SEEDAは「紙とペンと音と自分」で正にそうした病に疲れた後の叙情を描いている。あるはずの自分の「リアル」を追い求めるが故の姿である。(しかし、「リアル」など存在しないのである...)

 

「何もないなら怒りもないはず 何もないなら俺はいないはず 何もないなら言葉もないはず 何もないならここにいないはず」